演歌界の巨匠である北島三郎は、長く辛い下済み時代を経てきました。現在の北島三郎が存在しているのは、この下済みの経験あってのものと思いますが、その経験の一つに、まさかの漫才も経験していたのです。

北島三郎が漫才をするまで

北海道の高校に在学中、NHKのど自慢に出場し、当時からその美声は評価されていました。高校を中退した北島三郎は、その後東京の音楽学校へと進学します。

流しで歌を唄いながらデビューのきっかけを待ち続ける日々。そんな流しの仕事で出会ったのが作曲家、船村徹でした。それからは船村のもとでレッスン漬けの日々を過ごすことになります。そんなある日、船村が中々デビューのチャンスを得られない北島三郎にステージ度胸を付けさせるために、自ら台本を書き、もう1人の弟子とコンビを組ませ、東北地方の興行の前座芸人としてステージに立つ機会を与えられたのです。

そのコンビ名は「ゲルピンちん太ぽん太」。北島三郎はぽん太としてステージに立ちましたが、わずか三日でこのコンビは使い物にならないと判断され、前座をクビになってしまうのでした。

その翌年、念願の歌手としてステージデビューを果たすのでした。